無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。
批判や提案、あるいは前提の変化を受けて、「じゃあこうしましょう」とか、「いやそれだとこういう問題が」とか、かみ合った議論が続けられる人と、自分の論理がいかにすばらしいものであるのか、正当性を大声で繰り返す人とがいる。声の大きな人と話すのは大変なのだけれど、彼らの論理は、その論理の中では整合がとれていて、けっこう人気が出たりする。
論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、突っ込む場所もないのだけれど、彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。
前提がひっくり返ると、状況は悪化する。彼らの叩く「悪い奴ら」は、変化した状況に合わせて見解を変えるから、問題は解決して、きれいな論理は「悪い奴ら」のおかげで、その威力を発揮できなかったことになる。
「悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。世の中は「本当はこうあるべき」なのだけれど、「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。「悪い奴らの醜い論理に比べて、俺たちの論理は美しい。だから俺たちのほうが正しい」と、論理は続く。
「悪い奴ら」が退場した昨今、旗を振っている人たちは、犯人捜しに忙しい。彼らが探しているのは責任者ではなく「悪い奴ら」であって、問題を解決してくれる「悪い奴ら」を探すことは、あの人たちにとっては問題解決の手段に他ならないのだろうなと思う。
